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3168ダンディずん10/3 5:55:26122cfdBifb/Qx63Y

ダンディずん10/3 5:55:276122cfdBifb/Qx63Y||678
 いかに世俗を超越したかのように見える賢人であっても、その智が宿るのは肉体であり、十数世紀に渡る形而上学的思弁も、人の存在を肉体の枠から脱却させることに成功してはいない。我々は肉体から新たな肉体を生み、育て、一生物種として数百万年に渡って存続してきた。しかしながら、そのような事実にも関わらず、多くの場合、肉体は精神の従僕と見なされ、時には卑俗なものの根源とさえ考えられているのも、また事実である。
 

ダンディずん10/3 5:55:526122cfdBifb/Qx63Y||962
 
 最近頻繁に通うようになった図書館で、私はある一枚のポスターを見かけた。薄黄色いバックに女の子の顔写真。その上に大きなゴシック体で書かれた、心臓移植への寄付を請うコピー。周りを華やかなイベント告知の貼り紙に囲まれ、その存在すら覆い隠されそうになりながらも、そのポスターは切ないまで必死にひとつの生命の危機を訴えていた。
 

ダンディずん10/3 5:56:66122cfdBifb/Qx63Y||329

 日本ではまだ15歳未満の臓器提供が承認されていない。そのため、子どもの心臓移植は海外で行われる。当然、入院及び手術にかかる費用のみならず、渡航費や滞在費など莫大な費用がかかる。昨今、そんな子どもとその家族を支援しようという動きが活発になっているようだ。図書館だけではなく、コンビニエンスストアなどでもそのような寄付を募るポスターをよくみかけるようになった。


ダンディずん10/3 5:56:216122cfdBifb/Qx63Y||825

――あのポスターを製作して貼り付けていったのは、あの写真の子の両親だろうか。
私はブラウジングルームへの階段を上がりながら考えた。それか、もしかすると、支援団体が保護者に協力ようと作ったのかもしれない。とにかく、あの幼い少女の小さな生命を救おうと、多くの人々が努力し、協力を仰ぐべく奔走しているのは確かなことだ。


ダンディずん10/3 5:56:336122cfdBifb/Qx63Y||939

彼らの努力はきっと報われ、心臓移植は行われるだろう。手術は成功し、少女は生命の翼を再び小さく震わせ、やがて病院の外の広い世界へと大きくはばたいていくだろう。少なくとも私はそう信じている。だが、あの写真の少女の屈託の無い笑顔を思い浮かべると、私の胃は手術室で行われるであろう暴力にも似た治療行為に激しい拒否反応を示すのだ。


ダンディずん10/3 5:56:556122cfdBifb/Qx63Y||909

 魯迅の短編に「薬」という話がある。

 ある子供が大病にかかった。親はなんとか救おうと手を尽くすも、子供はいっこうに治らない。子供の回復を切望する家族に残された手段はただひとつ、処刑された人間の血を塗った人血饅頭を食べさせることだった。父親はとうとう、ある男に人血饅頭を依頼する。ある革命家の処刑の日、父親は処刑場の周りに群がる人ごみから離れて男を待った。気がつくと目の前にあの男が立っていて、まだ暖かい血の滴る饅頭を差し出していた。父親は金と引き換えにその饅頭を受け取ると、家に帰って子供に食べさせた。しかし、子供は死んだ。


ダンディずん10/3 5:57:116122cfdBifb/Qx63Y||477

 日本で医学を学び、新文化運動の急先鋒でもあった魯迅であるから、あくまでこの話の出てくる人血饅頭が象徴するものは、当時の中国の目を覆っていた俗信の愚かさであろう。だが、私はこの話を読んだ時、子供を救うためとはいえ、殺された人間の人血を食べさせる、という行為に含まれる狂気じみた愛の表れに衝撃を受けた。


ダンディずん10/3 5:57:386122cfdBifb/Qx63Y||107

 子供は生命の象徴である。子供たちはその四肢の隅々にまであらゆる可能性を潜ませ、春を目前にして今にも伸びんとしている若芽のような、曇りのない輝きを宿している。そこにはやがて必ず訪れるはずの死の予感を感じさせるものは全くない。やせ衰え腹の突き出した難民の子供の写真ですら、その悲惨な姿とは裏腹に死の持つ陰惨なイメージやけがれとは無縁の存在であり、むしろ浄化された象徴としてさえ受け取られる。
子供の放つ生命の光は死の影によって汚されることはない。逆にその影の下でより一層輝いて見えるのである。
 

ダンディずん10/3 5:58:36122cfdBifb/Qx63Y||457
 
 だが、「血を食べる」という行為は、死の「けがれ」を体内に取り込むことである。人の死によって汚された血は、それを食べた子供の血と混ざり、永久にその血管内をめぐり続けることになる。たとえそれが生命をつなぐためであったとしても、死者の血を食べることによって生命自体が死の色彩を帯びることになるのだ。


ダンディずん10/3 5:58:126122cfdBifb/Qx63Y||253

 その意味では、心臓移植はこれ以上ないほどの生命の凌辱である。心臓という器官は生命の象徴であり、その鼓動は生きている証である。その心臓が取り出され、代わりに死者の心臓が穢れた大人たちの手で押し込まれるのだ。結果、死の穢れは患者である子供の生命と不可分になり、胸の下の死者の心臓の拍動は、忌むべき寄生生物の胎動となる。


ダンディずん10/3 5:58:276122cfdBifb/Qx63Y||786

子供は、その存在の無垢性が故に、いとも容易く死の穢れに染められてしまうのだ。

 だが、人血饅頭と心臓移植では、いずれもその治療法に死がからむとはいえ、行われるまでの過程は全く異なっている。前者は「殺し」という暴力によってもたらされ、後者はドナーの善意によって可能になる。前者の死を「けがれ」の原因として取るのは容易だが、果たして後者は前者と同様の捉え方をしていいものであろうか。
 それにはまず、ここで言う「けがれ」とは一体何なのか、その実体を知る必要があるだろう。


ダンディずん10/3 5:58:436122cfdBifb/Qx63Y||231

 文化人類学においては、「けがれ」は境界性の観点から捉えられる。端的に言えば、ある体系の外部に存在し、その関係性の中間にあって揺らいでいるもの、それを「けがれ」と呼ぶのである。
 簡単な例を挙げてみよう。例えば、部屋の床に切った爪が落ちていたら、我々はどう思うであろうか。……きっと「汚い」と感じるであろう。爪は有機物ではあるが、別段腐って異臭を放ったり液体を出したりするわけではない。そうであるにも関わらず、指に生えていた時にはなんとも思われなかった爪が、切られて床に落ちただけで「けがれ」を帯びるのは、それが「かつて人間の一部であった」という存在のあいまいさからであるに他ならない。

ダンディずん10/3 5:59:76122cfdBifb/Qx63Y||213

 我々は特に、人間の肉体の一部、もしくはそこから分泌される液体に対して強い嫌悪感を抱く。これは、我々が自らの肉体とその外部の間に、強い境界意識を持っていることを示している。しかし、逆に言えば、それは精神的な「自己」と肉体的な「自己」が不可分なものとして感じられていることでもあるのだ。


ダンディずん10/3 5:59:316122cfdBifb/Qx63Y||538

 それゆえ、肉体の侵犯は精神の蹂躙に等しい。多くの言葉を弄してわざわざ否定されねばならないほど、それは明瞭な実感として心に住みついている。その感覚は死後の自分という仮定にも適用される。無用になるはずの死体を他人に提供することに、大抵の人間が躊躇を覚えるのも、その肉体的自己の感覚が存在する限り無理のないことである。だからこそ、心臓提供というドナーの決断は人々の感動を呼び、英雄的な行為だとみなされるのだ。
しかし、その感動も、よりプリミティブな「けがれ」の感覚を完全に抑えることは出来ないのだ。


ダンディずん10/3 5:59:546122cfdBifb/Qx63Y||334

 図書館の効きすぎた冷房の空気の中で、私は手にした心理学史の本に集中出来ずにいた。心臓移植という言葉がもたらす強い嫌悪感と、子供の生命を守らねば、というもうひとつの衝動が私の中でぶつかりあっていた。ひどい動揺に意識がぼうっとなり、ただあの少女の笑顔がぐるぐると頭の中で回り続けていた。
 そして、いつものように自分が全てを守ることが出来る万能の者でないことに怒りにも似た虚無感を抱き、そう願うばかりで結局何もしない自分に憤りを覚え、ただ西陽に炙られて輝く窓の外の風景全てに対する愛おしさがつのるばかりであった。
 

ベベル10/3 9:41:122201cf5zCGQSqRWWA||852
うあ・・・スゴ・・・
寝起きなのに読みいってしまった(*´∇`*)
活字が苦手な私でも一気に読破してしまったのはずんさんが書いたからかなぁ?
凄く興味があって(●´ω`●)ゞエヘヘ

でもそぉいう事考えた事なかったなぁ・・・
一つの生を救うために取られた手段にこれ以上ない生命の陵辱という言葉。
何だか心の奥で揺れ動くものを感じました!!
人それぞれの捉え方だと言えばそれまでかもしれないケド。
でも惹きつけられる文に「面白い、興味深い」とは言わずにいれませんでした。

最後の文群にあるような思いが、ずんさんという人を強く表してると思いました(´∀`*)ウフフ

グー者10/3 15:33:232199cftjolbPnI3Fs||95
すごいっす・・・(冷汗
めっちゃ長いし論文みたいでかっこいいし(カッコイイ?
なんかこれこそ芸術って感じっす・・・俺のくだらない小説の50倍以上はいいっす!^−^

marinoe10/3 21:53:232199cfwS2syb75tzU||449
ずん様、こんにちは
貴方の筆の確かさで赤裸々にされる事柄の前に
途方に暮れるしかありません
神の領域と人間の知的好奇心の進歩の狭間は
いったいどこにあるのでしょう
それでも偽善という仮面を冠り、血を飲み、肉を食べて、
体を徐々にサイボーグ化しても、文明、進化と名付けて
命を次に送っていくのが使命なんだろうと思います
そのパンドラの箱にはいつだって、希望が残されていると信じています

ダンディずん10/3 23:57:246122cfdBifb/Qx63Y||899
感想をくださった皆さん それと、きっといるであろう、開いたものの一連目でやめた皆さん
深くお礼申し上げます
このような、国語の教科書の半分よりちょっと後ろなんかに載ってそうな論説文を読むのは
さぞ苦痛であったと思います
その上、病気やその治療に関わる方々から見れば単なる独善にすぎないような内容でもあり、
たとえ私の本意がそうではないとしても、やはり否定されているように感じられるかもしれません
そうにも関わらず理解を示していただき、ありがとうございました
これを励みに次の作品へと向かおうと思います

銀月10/4 19:10:252182cfLMvpixotkc6||647
ずんさん、こんばんは^^

言葉になった文章でも、その中に人の暖かみが隠れているから、
読みながらも頭の中にはそのイメージがしっかりと息づくのが分かりました。
正直、心臓移植という事について考えたり意見を述べるのは苦手です。
どうしても感情が先行してしまって、「かわいそうだ」という一番最低な感情
のみで支配され、自分がどうそれに行動するか、何故そう思いそう感じたのか、
全く考えようとはしないです。むしろ、矛盾を感じるから考えたくないのかも。

銀月10/4 19:12:162182cfLMvpixotkc6||681
だから、この文章を読んだ時にも私が汲み取れたのは、貴方の普段の言葉に裏付けられた、
純粋さと万能への強い憧れ・・・と勝手に書きますが・・・でした。
もしかしたら、この文章を提示することでこのテーマについての考えを
読み手に呼びかけたかったのかな、と思うと。
とっても申し訳ないのですが・・・。

と、長々と手前勝手な感想になってしまいました。
稚拙な長文で失礼します。


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